|
カテゴリ
全体
イスラーム ラマザーン・断食月 日常生活 映画・音楽 食べ物 乗り物 お店 旅 南部シンド・パンジャーブ 北西辺境州マンセーラ 北方地域フンザ スカルドゥ・シガール ザルザラ・地震 クイズ? 文字 トファー・プレゼント 活動 草の根 住む人へ 日本人 以前の記事
2009年 06月
2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 お気に入りブログ
お勧めサイト
<北部シリーズ> パキスタン人ガイドさんの日本語独り言 メフィルon line 北部旅行に関して丁寧な説明 journal de パキスタン旅行業界 日本語ガイドさんがいて安心 旅行会社コックス&キングス 元ラホールコンピューター隊員/現 障害者関連フィールド調整員 ヌール・カーンさんのページ From Lahore, Pakistan 検索
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
![]() 大地震が パキスタン北部で 起こってから、 ちょうど2年が経ちました。 昨年の今日、パキスタン北部大地震がありました。イスラマバードで唯一直接的な被害を受けたマルガラ・タワーというアパートがありました。日本の皆さんには地震直後のニュースでよく知られていると思います。今朝8時からその場所で追悼式典があり、フウも事務所の人々と参列しました。 近所を車で通り過ぎることはあっても、倒壊現場を間近で見たのは1年ぶりでした。 瓦礫は近所の空き地に捨てられました。アパートは両脇だけが残され、現在は誰も住めません。しかし、隣接した他の高層アパート群には、現在も多くの方々が住んでおられます。 [写真:献花] 式典ではイスラム教のお祈りがされ、ちょうど地震のあった午前8時52分頃に黙祷を捧げました。言葉を述べた御遺族は、涙をこらえながら「違法建築によって、失われるはずでなかった命がたくさん犠牲になった」と行き場のない怒りを訴えていました。 植樹がされ、犠牲者の名前が刻まれた石碑が建ちました。そこに日本人2名の名前もありました。 [写真:犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑] 直後は野戦病院と化していた国立病院も、被災者のテントだらけだった空き地も、今ではそれぞれの場所へ移され、去年の面影はありません。私の知り合いでも地震関連の援助をしている人々がたくさんいます。急性期を乗り越え、長期的な目標へ移行しながら、それぞれが一生懸命に復興への道のりを歩んでいます。 [写真:「亡くなられた方へ、安らかにお眠りください」といった内容のガザル(詩)] 今日イスラマバードは穏やかなお天気でした。 ![]() ![]() [写真:倒壊現場] 10月9日 マルガラ・タワー 地震後24時間の倒壊現場 「その向こうへ行こう」きむかつさんの日記 ![]() あのパキスタン北部大地震が起こりました。 昨日学校の先生が教えてくれました。 「去年の明日、あの地震があったんだよね…」 最初は自分の聞き取りが間違っているのかと勘違いしましたが、 イスラム暦では太陰暦を使用しているので、毎年ラマダンも約10日ずつ前倒しになっていきます。 西暦では2005年10月8日でした。 (写真は今日の15時頃、障害者オリンピックに向けクリケット練習風景) 帰ってくる途中、それ以北は何も変わりなかったのに、ある橋を渡ったとたん建物が崩れ、災害用テントが立ち並ぶ景色になりました。去年10月8日の地震の爪あとです。 もう完全に住めないと判断された家は廃墟と化し、少し離れた平地のキャンプにテント暮らしをしている人も多いですが、半壊の家の隣に災害用テントを建てている家も多く見られました。
イスラマから西へ70キロくらいのハティアンという町に、地震被災者の村があります。 JICAの一般短期隊員が4名入っているので見学へ行ってきました。 97年まで実際に利用されていた軍の施設。水力発電関係者が住むために作られた小さなコミュニティで、ヘリポート、学校、病院、住居、講堂、モスクなどが揃っている。 8年間使用されていなかった荒れ果てた施設を、ムシャラフ大統領の一声できれいにさせたという。 ![]() 約600人のカシミール出身地震被災者が生活している。そのうち完全な孤児は100人。 成人男性の入居は許可しておらず、彼らは地元などへ働きに出ている。 子どもと女性しかいないその空間は、時間が止まった一見平和な世界。 資金は全てトルコの援助で賄われており、衣服や文房具など、配給だが不足はしていない。 村で学校に行っていなかった子どもたちも、ここでは学校に通っている。 教育のレベルがまちまちなので、年齢とクラスは合っていなかったりもする。 外ではボランティアに甘えてくる子ども、ケンカして泣いている子どもなど様々。 15歳くらいの大きなお兄ちゃんお姉ちゃんは小さな子たちの見本となるようにリーダーを任されているが、彼らも甘えたい年頃だったりする。 母親は外見的には随分歳をとっていても、聞いてみると25歳だったりする。 若くして何人も出産しているので日本人の肉体とは全く違っている。 子育てに無気力になっている母親もいる。 子どもにシラミが湧いたり、皮膚病が伝染してしまった。 子どもは甘えたい盛りだが、かまってくれる人がいない。 お互いにストレスがたまっていく。 そのようなところに隊員が入り、住み込みで活動している。 子どもと遊んだり、母たちと家庭菜園や料理教室、運動、保健衛生、保育園教諭の場面でそれぞれに一生懸命働いている。起床から就寝まで、土日なしで働いている。 パキスタン政府はこの施設をいつまで続けていくのか、当面の予定などもうち出していない。 JICAはとりあえず第一弾のボランティア派遣をこの7月末で終了する予定だ。 ![]() 外部からの侵入者がいないこの空間は物凄く平和で楽。 しかし、働かなくても食べていける、将来の目的もないこの箱の中は、現実味が無い気がした。 以前勤めていた病院の、生活保護・長期入院患者を思い出した。 成長していく子どもたちの未来のために、政府や大人たちが導いていくべき時。 援助はCM性のあるところに集中し、いつの間にか引いていく。 子どもは年月をかけてゆっくりと成長していく。
あの大地震から4ヶ月が経とうとしている。 街は一見落ち着きを取り戻したようにも思える。 イスラマバードのあちこちには、被災者キャンプや負傷者が入院・治療している場所がたくさんある。 もともと高い塀で囲まれたパキスタンの家屋。人々はそれぞれの箱に収まり、街としては震災前と変わらない雰囲気さえある。 メロディー・マルケットという商店街の一角に、火事で焼けた映画館がある。 そのロビーに、震災で脊髄損傷(以下:脊損)を負ったカシミール出身の女の子たちが、30人くらいで共同生活をしている。 その場所を撤退し病院へ移動するというので、最後に挨拶へ行った。 ![]() フウがもともと仲良くしてもらっているパキスタン人の友人たちがそこで働いている。 彼らは“障害を持ちながら自立生活を送るための支援”を、物質的にも精神的にも行っている。 フウは、そんな彼らの活動を写真に収めたいという気持ちだった。結局お茶飲んで、子どもと遊んでしまったけど。 この3ヵ月半、脊損の彼女たちの変化は大きい。 当初は怪我の痛みと、家族や村を失った衝撃とで、絶望でしかなかった。 今では、家族の力を借りつつ真新しい車椅子に移り、自らの手でこぎ、ロビー内を行き来している。 彼らから教わった、車椅子で生活するための技術や、“障害をもっても自立して生活していく”という考え方を吸収していっている。 住み慣れた村へ帰りたいと願う気持ち。 脊損を追いながら、村で生活することの困難。 今後は、彼女たちが安心して自立した生活をできる村を作っていくことが課題。 政府の協力無しには進められない、復興支援、被災者支援に加えて、今までパキスタンで軽視されていた障害者支援が加わっていく。 言葉も文化も違うイスラマバードの焼けた映画館に押し込められた彼女たちの3ヵ月半。 しかし、彼らとの出会いによってこの期間は重要な意味を持つものになった。 今後の生活に“自立して生きる”という希望が見えた。 移動先の病院は、フウの職場から1キロくらい。近いので今度写真を現像して渡しに行く約束をした。 地震の災害援助で日本の自衛隊は、イスラマバードから被災地へヘリコプターで物資を輸送し、帰路は被災者や現地で援助活動をしている方々を乗せて帰ってくる、という活動をしています。我ら協力隊のOB・OG(2年の任期を終えて日本に帰国していた方々)が、通訳という形で自衛隊の活動をサポートしています。 フウたちも大使館が主催した見学会へ行ってきました。 自衛官の方々は慣れないパキスタンの文化の中で、パキスタンの軍人さんとのちょっとした交渉にも戸惑うことが多かったそうです。そんなとき、協力隊員の、文化を知り尽くしたからこそできる力強く成功する交渉力にとても助けられたとおっしゃっていました。 今回の地震で、パキスタンには各国からの援助が入っています。 フウが関わるパキスタンの方々は、「日本の軍隊も私たちの国を助けに来てくれた。」と素直に感謝の気持ちをフウに伝えてくれます。 フウが何かをしたわけではないのに、同じ日本人だから、フウにお礼を言ってくれます。 自衛隊は11月30日に撤退します。 イスラマバードに、日本人が多く滞在する「ラベンダー」というホテルを経営していらっしゃる方々が居ます。その方々が中心となり、イスラマから少し離れた所に、地震被災者のためのキャンプを建設中です。 協力隊員と一緒に見学させてもらいました。 元々農地だったところで、うるさくなく、景色もいい。 最終的にテントは100張りの予定。布製だが、防水加工がされているそう。 トイレ、井戸、ナーンを焼くためのタンドールという壺焼き釜が出来上がっていた。 イスラマには所々にテント村のようなものが出来ています。朝夕吐く息が白くなってきました。 北のほうでは冠雪も見られると聞きました。 寒さの訪れとともに、第二第三の犠牲者が増えるだろうと予想されています。 フウは昨日初めて家のストーブを焚きました。 日パ旅行者さんではNWA(Nippa Welfare Association)という組織をつくり地震救援活動をされていらっしゃいます。 「NWAのホームページ」 http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nippagrp/pakistan.htm きむかつさんのブログ(日パ旅行者さんでの支援活動が詳細に記されています) 「別冊その向こうへ行こう」http://blog.kimkatsu.com/
とあるPIMSの廊下でフウの立場はなんと“お絵かきマスター”になってしまった。 フウはウルドゥーがつたない。かつ、被災者はウルドゥーよりもパシュトゥーを話していたりする。 言葉でのコミュニケーションはお手上げ。 国境の無いもの、それは“お絵かき”。(音楽はセンスが無いので。) こちらの人々は想像して絵を描くということに慣れていない。 なぜなら学校教育で図工や音楽が無いから。 だから子どもたちに「絵を描いて。」というのは拷問にも近いお願い。 「何が好き?」と聞いて、フウが描くことにする。できたところで一緒に色を塗っていく。 骨折で手がうまく使えなかったり、初めてで緊張している場合は色だけでも指定してもらう。 お父さんがいたらお父さんに塗ってもらったりもする。けど、父さんも塗り絵なんて始めてだったりする。 パキスタンに来て大抵の場合は中国人に間違われる。 「東洋系の顔を見たらまず中国人と思え!」これがパキスタン人の鉄則だ。 いくらNationalやSONYが頑張ったって、日本の場所さえ皆知らないのだ。 “made in China”中国の国力と知名度の高さを思い知らされる日々。 その次はアフガニスタン人。つたないウルドゥーを話し、色が白いから。 さらに我ら海外協力隊は、薄汚いシャルカミ(民族衣装)を着て、自分で野菜を買うから。 初めて行く八百屋では大抵アフガン人に間違われる。 “お金持ちの国”から来た日本人なら野菜を値切ったりするはずがありません。 今までに一人だけ、一度目でフウのことを「日本人?」と聞いてきた若者がいた。 心の中で拍手喝采。座布団10枚あげてハワイ旅行でもプレゼントしたいくらいだった。 そんな中、PIMSで、とある女の子のお父さんがフウのことを「イラン人かい?」と。初日は「ううん、日本人だよ。」と答え、(こんな顔のイラン人いるわけ無いじゃん)と思った。 二日目もそのお父さんは「イラン人だから…」と喋っていたのをフウの耳は聞き漏らさなかった。 けど、もう「なにじん」でもいいやと思った。 フウのウルドゥー語もイラン人並みになったわけね、と喜ばしいかぎりである。 (*イラン人はイラーニーを話します。文字はウルドゥー語のようにアラビア文字ですが、話し言葉は全くわかりません。) 写真:①小児病院入り口前に貼られている名簿。病室、患児の名前、年齢、出身地が手書きで書かれている。②成人病院前に張られている患者さんの顔写真を眺める人々。 ③17時半頃、病院の庭でイフターリーの配給。この時間は何もかもストップして皆イフターリーを頬張る。
フウの職場であるセンターの半分がホステルになっている。そこにカシミール被災者が住むことになり、今日は生徒たちが一生懸命家具やらを動かしていた。 午前中は皮革工芸隊員としての仕事をほのぼのとこなし、その後にPIMSでボランティアを始めて何日か経った。 (PIMS(ピムス):フウの家と職場の間にあるマンモス総合病院。同じ敷地内に、小児病院、成人病院、母子保健センター、看護学校、寮などがあり、今回の地震での負傷者を受け入れる中心病院となっている。) 他の協力隊員も自分のできることをみつけ、動き始めている。 何かしないではいられない。自分の精神安定のためでもあると思った。 オペ室はフル回転。最高で1日に160件のオペをこなしたという。 医師や全てのスタッフの表情にも疲労は明らか。 それぞれ限界スレスレで一生懸命のことをしているのはわかるが、そのやり方に疑問を感じずにはいられない。医療基準や看護師の仕事も日本とパキスタンでは違いが多すぎる。 廊下に、ベッドが放置に近い状態で並べられている。肉が削ぎ落とされ、骨が露出し、末梢が腐りつつある足を、今日もまた消毒している。 子どもは激痛に泣き叫ぶ。 “麻薬を打ってあげて。”“早く切断してあげて。”と思う。 しかし何も出来ない外人の自分がいる。 今、PIMS内は2種類の人間に分かれている。 被災者と否被災者。 前者は苦痛と絶望と不安と疲労と諦め。自分を含め後者は冷やかしにも思える。 TVの取材などでたびたびカメラマンを見かけるが、フウはしばらく写真を撮ることができなかった。今も院内の写真を撮ることは出来ない。 地震から大分たったが、今でもヘリで被災者が送られてくる。 敷地内には、寒さをしのげないような薄っぺらなテントが立ち並び、避難者が生活を始めている。 混乱しているが、それでも落ち着いてきた感じがする。 生き残る強さを感じる。 アーザード・カシミールから来た兄弟がいる。何日か話しているのでフウのことを覚えてくれた。お姉ちゃんが最後に「あなたが帰ると淋しいよ。」と甘えてきた。 ギュッと抱きしめて「私も。また明日来るから、絵描いて遊ぼうね。」と言った。 彼女は軽症だが、心の中は見ることは出来ない。 その他にもまだ声もかけられないような家族が沢山いる。 気の遠くなる分野に足を踏み入れた。 < 前のページ次のページ >
|